自身自信

自分の周りには、いろんな人がいる。特に、多様なバックグラウンドや思考を持つ人々に囲まれた、特殊で恵まれた環境に身を置いて実感する。

その中で、よく話題に上がる人がいる。よく話題に上がると言うのは、その本人がいないところでもかなりの頻度で会話中に名前が上がる。しかもその人の特徴や最新の動向について既に知っていたとしても。

簡潔にまとめると、自分の周りにいる人の中でその人がいない場所でめっちゃイジられている人がいる。自分はそれをよく聞いているし、その会話に参加している。繰り返し。

イジられていると言うのは、その人の一見して恥ずかしいような素直すぎるような言動や行動とそれを知った人による評判が話題の中心になるということだ。ダサい、ウケるというような感情が自分の中にあるのをわかっているつもりでもある。

その人はイタい。

しかし、"その人"は果たしてどのようにして、イタいのか。

話題や会話の流れによるが、自分の名前が自分のいないところでも上がり話題の中心になることは、多くの人が一度は求める情景かもしれない。なぜなら自分も多聞に漏れず、アイドルや著名人、実力者のような人間に憧れや目標としての姿を見るからだ。そしてそれらには、本人のいないところでも話題にされ評判が多くの人に伝わるという側面を持っている。それは話題の人としての存在が認識を共通し、かつ価値を生み出すというのを頭のどこかで誰もが思っているかもしれないと私は考える。

ということは知らないところで話題になること自体はイタくない。

そこで、一度話題にされる内容について考えてみる。イタいというその言葉や感情の、そのこころは、自分やその人と社会との認識のズレに対する卑下であると考えた。その理由は、自身に満ちた人はそれだけの成果があるのが当たり前だが、そんな成果も無いのに自身に満ちているのはおかしい、という認識を我々は持っているからである。

自信に満ち満ちた表情と言動や行動から、それを誘因として引き起こされた物事は、誘因に値する社会的インパクトを持つ成果だと誰もが信じている。一方で、これは因果関係ではなく相関関係だ。社会的インパクトを持つ成果を出した人間の多くは否応なく自身に満ちたように振る舞うのだということも感じているからである。しかし、自信に満ちたその人とその人の成果を比較した時に、信じていた因果関係を覆されると同時に自己認識の矛盾にも似た感情から回避する術として卑下する行動を取るのではないか。実際にそういった状況は経験したことがない人のほうが少ないだろう。

つまり、その人は自信に満ちた言動や行動をするが、その人が持つ社会的インパクトや成果が対応していない状況を、イタいと表現しているのだ。イタいことを表現するとウケる。さらに言えばそれらのイタい状況は自分の中にある自信と成果についての因果と相関の認識違いによって主観的に下される評価でしかないのかもしれない。